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伴野荘(とものしょう)は、信濃国佐久郡(現在の長野県佐久市伴野)にあった荘園。 千曲川左岸の野沢平、後に南佐久郡と称された地域の大部分を占める荘園であるが、大井荘・平賀郷との境界が錯綜しているため、正確な領域は不明。注文などの史料から、伴野・野沢・臼田・海野口などが含まれていたことが判明している。 『吾妻鏡』文治2年3月12日(1186年4月3日)条に後白河法皇から源頼朝に示された「関東御知行国々内乃具未済庄々注文」にその名が見られるが、同じ信濃国に伴野荘(伊那郡)が存在するため、「佐久伴野荘」と呼ばれる。当時の領家は藤原基家、地頭は小笠原長清であった。その後本家は後白河法皇の孫である後鳥羽上皇、領家は基家の娘で守貞親王(後の後高倉院)の妃であった陳子(後の北白川院)に継承された。ところが、承久の乱の後に鎌倉幕府によって後鳥羽上皇の荘園が守貞親王のものとなり、親王と陳子の娘である利子内親王(式乾門院)は父から本家職、母から領家職を継ぐことになる。その後、利子内親王の姪である暉子内親王(室町院)がこれを継承した。一方、地頭職は小笠原氏の庶流が継承して伴野氏を名乗ったが、霜月騒動で縁戚の安達氏に連座して北条氏に地頭職を奪われた。 霜月騒動の少し前である弘安2年(1279年)の冬、善光寺に向かう途中であった一遍が、伯父の河野通末の配流先であった伴野荘を訪れ、この地の市場において初めて踊念仏を行ったと『一遍聖絵』にある。 暉子内親王没後の乾元元年(1302年)、その遺領は「室町院領」として再編されて伏見上皇のものとなり、以降本家職・領家職を持明院統が継承することになる。元徳2年(1330年)、持明院統の花園上皇は領家職を大徳寺に寄進、3年後の元弘の乱で北条氏が滅亡して地頭職が大覚寺統の後醍醐天皇によって没収されると天皇はこれを大徳寺に寄進したため、領家職・地頭職は大徳寺のものとなった。建武元年(1335年)10月、伴野荘の雑掌が大徳寺に年貢注文を注進しているが、それによると同地では代銭納が進んでおり毎年銭約7,600文が惣年貢(領家分+地頭分)が納められていた。だが、南北朝時代には悪党の蜂起などによって支配が不安定になり、貞和5年(正平4年:1349年)の役夫工米徴収の記録を最後に姿を消すことになる。 == 参考文献 == *井原今朝男「伴野荘」(『国史大辞典 10』(吉川弘文館、1989年) ISBN 978-4-642-00510-4) *郷道哲章「伴野荘」(『日本史大事典 5』(平凡社、1993年) ISBN 978-4-582-13105-5) *井原今朝男「伴野荘」(『日本歴史大事典 3』(小学館、2001年) ISBN 978-4-09-523003-0) *『日本歴史地名大系 20 長野県の地名』(平凡社、1979年) ISBN 978-4-582-49020-6 抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)』 ■ウィキペディアで「伴野荘 (信濃国佐久郡)」の詳細全文を読む スポンサード リンク
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